(1) 解雇事件の概要
大垣女子短期大学は、1969年に開設され、第一部では幼児教育科、音楽科、美術科(後にデザイン美術科に改称)、保健科(後に 歯科衛生科に改称)、第三部(昼間二交代制)では幼児教育科、保健科で1990年まで運営されてきた。
ところが80年代後半から第三部学生が年々減少していや傾向が生まれた。それを克服するため第一部の拡充を図るべく学科増 設が計画され、1991年に国際教養科(入学定員100名)が開設された。
国際教養科は開設以来1995年ぐらいまでは順調であったが、96年から入学者79人で定員割れを起こし、97年52人、98年34人と なった。国際教養科の学生減に対して理事会は、1997年4月「国際教養科の体質強化」のためと称して教養科と国際教養科を統合
した。そして1998年2月に国際教養科の学生募集停止・廃科を決定し、わずか7カ月後、理事会は何ら経営努力もせず、また学内で 行われていた議論も無視し、同年9月に国際教養科所属教員12名に対して退職予告をした。最終的に、私(=堀江)のみがこれを
拒否したため、解雇され、裁判で争うことになった。
(2) 解雇事件の特徴とその性格
大垣女子短期大学解雇事件の特徴としてまずあげられるのは、国際教養科廃科即、所属教員全員の解雇ということである。全国 の私立大学では初めてのケースである。
理事会は、大垣女子短期大学の解雇事件は国際教養科の廃科に伴う整理解雇であると主張している。しかし整理解雇であるか らただちに解雇は有効であるということにならない。最高裁の判例では整理解雇するためには4要件が必要であるが、本件は整理
解雇に該当しない。つまり、国際教養科の立て直しが可能であるか,また解雇回避措置を尽くしたかが問題になるが、配置換えの 可能性を十分検討していない。
また理事会は「短期大学設置基準の大綱化に基づく一般教育の見直し、その結果としてのカリキュラムの改正」が解雇理由であ ると主張している。しかし、統合の前後に何らカリキュラムの変更はない。2000年度のカリキュラムから「一般教育科目の見直し」が
実施されたのであるから、退職勧奨や解雇予告通知の後に解雇理由が生じたことになる。これは明らかに矛盾である。退職勧奨の 時期には、カリキュラムの改正は行われていないので、国際教養科が廃科されても私には担当科目があり、廃科を理由とする整理
解雇は私には妥当しない。
そして、理事会は、教授会で審議することなく私の解雇を決定するという手続き違反を犯している。
(3) 解決に向けての闘い(教職員組合、教授会の対応)
私は、1998年9月に解雇予告通知を受け、すぐさま当時の教職員組合執行委員長に国際教養科教員の解雇通告について事情 聴取を申し入れた。しかし申し入れは拒否され、総会でも次期執行委員の選出問題にすりかえられてしまった。その後、当時の執
行委員長はじめ組合員の脱退が続き、2000年4月でわずか3人の組合になった。教員の組合脱退を見ると昇格問題が大きな原因 になっている。理事会の前での教職員同士の競争を禁止し、解雇を守るという最後の一線に歯止めがかからない組合は機能停止
することになる。
また、教授会から助教授以下の教員が排除され、教授会は機能しなくなった。最終的には、2000年2月に教授会自ら、教授会を 審議・決定する機関から単に審議する機関としてしまった。このように教授会の機能が変質されたのは、教授会が教職員組合運動
に支えられなかったためである。
(4) 運動の広がり
2000年3月10日の第1回口頭弁論の前、3月4日に「大垣女子短期大学解雇撤回闘争を支援する会」が開かれた。日本科学者会 議岐阜支部、東海地区私立大学教職員組合連合をはじめ国公立大学、さらに地元の団体・組合の支援を受けることとなった。急速
な運動の盛り上がりに支えられて、大垣女子短期大学の門前におけるビラまき2回、署名3600人、全国の大学数員の理事会に対 する解雇撤回を要請する要請書を210人集めることが出来た。 (堀江一晃)
(以上,資料@181〜183ページより抜粋。著者は原告)
(5) 訴状
(6) 日本科学者会議の決議
(7) 裁判所判決(全文)
平成13年8月14日,岐阜地裁大垣支部 容認。
(8) 関連ホームページ
弁護士 山田秀樹氏のページ