資料(7の2)
守山の教育の歴史

資料(7の2)
 守山市誌より(平成9年3月刊行)

守山の教育の歴史
守山は教育に関する先進的な土地柄(前守山市長 甲斐道清)

 守山もまた、歴史遺産が多く教育も古くから盛んなところ−。京の都や比叡山延暦寺に近く、中世の仏教布教者である連如や一休の足跡地として知られ、そのため寺院の数も多く、その殆どの寺院が近世において庶民の教育機関としての寺子屋を開いてまいりました。その結果、明治以降も住民の教育に対する意識は高く、すでに「学制」公布(明治5年8月)前から学校開設の動きが始まっていました。また、我か国の幼稚園教育の制度的確立(昭和22年)のはるか前、守山ではすでに大正13年に守山幼稚園が開設されています。わが国の少年赤十字団の結成は大正11年、発祥地は守山小学校です。

守山の地は、昔から文化・教育の先進地だった(市誌編纂委員会長 内田秀雄)

 鎌倉期に新仏教が起こり、その後本願寺教団が金森、三宅を中心として勃興しますと、村々に「道場」が出来ました。これがのちの寺院です。江戸期に入って、人は皆寺院に属するように定められました。寺院は寺子あるいは針子を集めて教育にも携わりました。守山は全国的にみても寺院の多いところですから、当然教育も盛んでした。
 わたしたちの先人は、時勢の進展に遅れをとる事無く、自分たちの力で村の学校を建て、村の子供を育ててきた(編集顧問 川崎 源)

 守山の寺子屋 文政5年(1822)38カ所(実際にはもっと多かった)。
  (守山 7  小津 5  玉津 6  河西 10  早野 10)
 守山に初めての学校誕生 明治6年2月 滋賀県第十六学校(吉身、岡、立入)
  この 「学制」公布の前からすでに学校開設の動きがあり、そのための資金調達がなされていました。学校開設にはそれ相応の費用が必要であったが、当時はそれを地元の有志の出費によって賄おうとしたからです。
 明治8年1月 同化学校(川田、笠原、中村)
   7年8月 服部学校(新庄、服部)
   10年  広明学校(水俣、今浜)−観潮学校(校名変更)
   7年  久敬学校(杉江)
       知道学校(山賀、欲賀、森川原)−9年久敬学校に合併
   9年6月 開精学校(勝部、浮気、今宿、二町、閣魔堂)
   6年4月開設の第三十四学校(今宿、二町、閣魔堂)の
     後身(今宿村本像寺境内→服部神社境内)

町立の女子校が発足

 守山女子高等学校(「守女高」と略称)の前身は、昭和六年(1931)マルサ呉服店主南井竜太郎が自宅店舗を改造して裁縫教室を開いたことに始まる。その後「湖南裁縫女学校」、戦時下には「守山工芸学校」、戦後は「守山高等裁縫女学院」と名称を変え、昭和26年9月、守山町に移管、「守山町立守山高等裁縫女学校」となり、守山町内をはじめ近隣町村の女子教育の場として大きな役割を果たしてきた。
 その後高校への進学熱が高まる中で守山町には公立私立いずれの高校もなく、守山町は守山の将来発展と県下各地からの要望に応えるため、昭和34年、守山小学校の統合校舎が完成したのを機に、旧勝部小学校の校舎が全て開放され、「守山町立守山女子高等学校」が創設された。
 当初は、被服を主とした特色ある学校づくりをめぎす1学年3学級、昭和43年、生徒数の増加に伴い新校舎が竣工、県下唯一の公立女子校高として、揺るぎない基礎が築かれました。
 昭和45年市制の施行、市立女子校高として、教育内容の一層の充実が図られた−−特別教室や体育館、作法館の建設校舎の増築、運動場の拡張等々施設設備が充実し、それにつれて部活動の活躍。家庭科研究の推進、ボランティア活動など、大きな成果をあげ20周年を迎えました。
 しかし、高校進学率が9割を超え、高校教育の改善と普通科志望が強まる中で、守女高の教育改革についての多くの答申、提言がなされた。
 情報化、国際化社会に適応する教育の創造が強く要求されるなかで、昭和57年商業科が設置、それに合わせて特別教室を増築、最新のオフィス・オートメーション機器を導入して情報処理教育が推進され、日米パソコン同時通信に成功するなど、脚光を浴びるようになった。昭和63年4月、県内公立高校で初めての英語科が新設され、国際感覚豊かな女性を教育する高校として大きな期待が寄せられた。以来、多様化する生徒の進路を保障するための学習が着実にすすめられている。
 高校用設以来36年、激動の時代を背景に幾多の試練を乗り越えて、伝統の灯を守りながら、現在は被服科3、商業科2、英話科1学級の高校として前進しています。このように3つの課程をもつ魅力ある高校として、また地域に根ざした特色ある女子校高としてその活躍が期待されている。
 (昭和38年、県立守山高校、58年県立守山北高校が市内に開設)

※1 裁縫敬重の開設(マスサ呉服店主)
 呉服店のお針子に和裁の技術を習得させるとともに、女子として必要な教養(礼儀作法、茶道、華道、料理、手芸、書道等)を身につけさせることが目的。当時、大津には大津高等裁縫女学校(現在の滋賀女子高等学校)があり、ともに裁縫女学校としての特色をもって地域の女子教育に大きな役割を果たした。生徒は近江八幡、安土方面からも通学、遠隔地の生徒のための寮もあった。生徒の増加に伴う校地の拡張などは、生徒や職員の奉仕作業で竹薮を開墾。

※2 町に移管された頃の様子
 職員23名、生徒約300名。生徒の多くは農村地域からの通学であっため、春の田植え期と秋の収穫期にはそれぞれ1週間の休みがあり、その分だけ夏・冬休みは少なくなっていた。
 生徒作品の公開展示、バザー、ファッションショー。演劇会(当日会場に入りきれない観客は近くの電柱や木に登ってみるほどの盛況、住民や保護者の楽しみな催だった)。
 一般教養科目の充実

※3 公立高校に向けて
 湯本溝寿美校長の着任(全国学校図書館協議会会長、戦後まもなくアメリカ教育を視察。特に女子教育には卓越した見識をもつ)
 守山町に女子高校を設立する必要性を力説、今井町長に意見を具申。
 守山町の将来の発展のため「県下各地からの要望に応えるため、県下に恥じない立派な町立高校を創設したい」との市長の念巌守山町教育長寺田農夫也、教育委員長藤井義顕も同意、計画が推進された。
 財政的には町村合併や企業誘致など厳しい状況であった。
 県に謎可の申請をしたとき、県は予想外の要諦に大いに驚いた。全国に大都市経営の公立高校はあっても、町立の全日制高校は1校もなかった時代。守山町が果たして経営していけるのかと、県は深い疑問−一寺田教育長「被服を主体とした特色ある学校をつくるのだから、その特色を生かしてあくまで守山町でやっていく。県の懸念しているような心配は絶対にかけません」と断言。
 34年1月設置認可、2月入学志願者受け付け(授業料などに町内外の格差を設けず、公平に広く県下の女子を募集)−150名の定員に、近江八幡をはじめ県下各地より341名の志願者

※4 昭和37年10月12日夕刻出火、本館全焼と新校舎設立の運動
 PTA、同窓会が中心となって校舎復旧の具体策の検討−一口2000円の寄付金の募集(校舎再建施設の助成)、町当局への働き掛け(11月)
 38年11月工事に着工(予算862万6000円)、39年3月本館再建。

 39年11月校舎改築促進後援会の設立 翌年1月総会
 名実ともに町立の女子高校にふさわしい新校舎を、一日も早く!(陳情)
 42年4月「校舎改築協力定期貯金」の実施(一口10000円)昭和50年度まで。
 校長や後援会、PTA、同窓会の強い一丸となった愛校心に応え、さらに守女高を県下唯一の公立女子高校として魅力あるものにするため、校舎の大改築を企図、昭和42、43年度の継続事業とし、昭和43年6月、新校舎第一期・二期工事が竣工。(鉄筋コンクリート三・四階建て、総建築面積3313平方メートル、工事費約1億円。管理室,普通教室13)
 昭和38年県立守山高校開設 
 38年度167名の3学級
 39年度220名志願者
 40年度293名志巌者→定員を200から250名(5学級)に変更

 生徒の通学範囲も次第に拡大,37年以降大津市はもとより彦根,多賀,米原,醒井,長浜,虎姫等々から通学する生徒が年々増加。