資料 
守山市立守山女子高校誕生の前史

資料 守山市立守山女子高校誕生の前史

−守女の誕生、発展の母体−

 守山という地は、明治の学制発布の前に、すでに学校開設の準備をはじめたところ。明治5年の学制発布直後から次々に学校を開設していきました。(明治6年吉身・立入・岡地域に滋賀県第十六学校、今宿・二町・閣魔堂地区に第三十四学校、7年新庄・服部地区に服部学校、杉江地区に久敬学校、山賀・欲賀・森川原地区に知道学校,8年川田・笠原・中村地区に同化学校、9年服部・浮気・今宿・二町に閣魔堂地区に開精学校、10年水保・今浜地区に広明学校が開設されました。)地域の有志が資財を持ち寄り学校づくりを進めたのです。全国的にも誇れる先人たちの業績です。(わが国の幼稚園教育制度確立−昭和22年−のはるか前、大正13年守山ではすでに守山幼稚園が開設されています。)
 江戸時代の後期すでに38を超える寺子屋が守山のあちこちにあり、少なくない農民、商人のこどもたちが教育を受けていたのです。1840年代の天保の飢饉、「天保の改革」の時代(江戸時代末期)、農民の血と汗まで絞りとろうという幕府の恣意的な「検地」が猛威をふるい、特に近江の地、とりわけ湖南甲賀は全国一に近い米所、幕府がこの地にねらいを定めました。湖南甲賀の4万の農民が立ち上がり数十名の地域の指導者層の犠牲(獄死、拷問死、歴史家は「天保の議民」と讃えています)の上に、検地を阻みました。この農民の闘いの背後には教養豊かな指導者層、それを育んだ風土があったといわれています。
 この多くの犠牲に屈せず、先人たちは「郷」という地域の単位で、また郷と郷が共同しながら「守り合う」力を高めて、この土地を耕し守ってきました。守女の前身「マルサ裁縫教室」は、昭和6年こうした歴史と有志の教育振興気風と活動の中で誕生し、戦中を乗り越え、守山町(市)立女子高校に。