平安女学院大学びわ湖守山キャンパス就学権確認訴訟とその意義
−大学の自治と学生の就学権をいかに守るか−

 

平安女学院大学びわ湖守山キャンパス
就学権確認訴訟を支援する大学人の会

 

1.訴訟に至る経緯とキャンパス移転に伴う就学権侵害の問題性

(1)「びわ湖守山キャンパス」の設置と移転の経緯

 学校法人平安女学院(理事長山岡景一郎氏)は,これまで長い間,京都市内にキャンパスをもって短期大学,高校・中学校さらには幼稚園を運営してきた総合学園である。同学校法人は,1987年4月に,新たな事業展開を図るため,大阪府高槻市南平台の丘陵地に「高槻キャンパス」を設置し,短期大学を移転した。その後,更なる新たな事業の展開にあたり悲願であった4年制大学づくりに着手し,これを「高槻キャンパス」とは別の場所に置き,京都市内の中高・幼稚園を含めて3拠点で教育事業活動を展開しようと構想した。そして,同法人は,2000年4月に,滋賀県守山市三宅町に約4ヘクタールの面積をもつ新たなキャンパス(びわ湖守山キャンパス)を建設して,そこに4年制の新大学=平安女学院大学を開校した。新しい4年制大学は,定員280名の「現代文化学部」と,その中に「現代福祉学科(定員130名)」「国際コミュニケーション学科(定員150名)」の2学科を置くものであった。
 学校法人平安女学院は,4年制新学部の開設とそのための「びわ湖守山キャンパス」の建設にあたり,滋賀県守山市との間で1997年12月に「基本協定」を締結した。それはキャンパス用地の取得および校舎・施設・設備等の創設費として補助金を出すことを内容とする。この基本協定に従って,地元守山市は平安女学院に対し,1998年1月から99年4月にかけて大学取得造成事業の補助として18億1537万7000円,大学施設整備事業の補助として7億5000万円,総計で25億6537万7000円もの補助金を拠出した。また,滋賀県も1998年9月25日に平安女学院からの施設等整備費補助金交付申請を受け,同年9月30日付で同大学施設等整備事業として8億円の補助金を交付した。このように,新たな4年制大学として開設された現代文化学部と「びわ湖守山キャンパス」は,守山市における地域振興策の重要な事業計画=「大学を核としたまちづくり」計画の一環として誘致を受け,滋賀県民および守山市民の熱い期待のもと,総額で33億6500万円もの巨額な公的資金によってつくられたものであった(大津地裁に提出された原告訴状によれば,大学の建設事業費は総額で約48億7300万円であり,上記公的資金はその約70%を占める。また守山市が出した補助金は同市の年間一般会計予算の27%にあたるものであった)。
 ところが,学校法人平安女学院常務理事会は,開設してわずか4年もたたない2004年3月9日,突然,学生が思うように集まらないという理由で「びわ湖守山キャンパス」の廃止と同大学の高槻キャンパスへの移転を決定した。これを受けて正規理事会は,同年4月19日,現代文化学部を2005年3月末をもって廃止(入学募集の停止,学科を再編統合する)する,同時にびわ湖守山キャンパスも廃止してキャンパスを高槻に移転・統合し,残った学生も2005年4月1日付で全員高槻キャンパスに移動させるということを決定した。こうして,巨額な公的資金を受けながら設置された守山キャンパスはわずか5年で廃止され,守山市から大学の撤退(守山市財政からみれば「補助金の食い逃げ」)が実施された。

(2)キャンパス移転問題と就学権の侵害

 平安女学院大学守山キャンパスの移転は,上記の経過からして,補助金を拠出した自治体との関係も含めて多くの問題点を指摘しうる。しかし,同キャンパスで学んでいた学生に焦点をあててみれば,就学権を侵害するずさんな手続きと有無を言わさない強引な進め方によるものであった。以下,問題点を列挙すれば次の通りである。
 第一に,最も重要な利害関係者である全学生に対して,事前の説明が一切保障されなかったことである。法人の常務理事会が正式に移転計画を策定したのは2004年3月9日,正規理事会が移転時期(2005年3月末)も含めてそれを最終決定したのは,同年4月19日である。その間はわずか1ヶ月と少々に過ぎない。このように,計画から最終決定まで極めて短く,その間に学校法人あるいは教学側サイドの教授会,あるいはそれに類する意思決定機関から全学生に対し事前説明は一切ない。少なくとも法人の最低限の措置として移転時期も含めて正式な告知さえ責任もって行わなかった。学生やその父母が最初にその事実を知ったのは,大学からではなく「京都新聞」の報道という有様であった。
 第二に,キャンパスの移転決定からその実施完了(2005年3月末)まで,1年にも満たないという極めて性急な事業遂行であったことである。2004年4月1日に入学した新1年生は,真新しいキャンパスが数ヶ月後に廃止され古い大阪・高槻キャンパスへ移動する,同時に自分の学部も今年1年限りで廃止されること(学科の整理統合)も知らされずに入学した。そしてその事実は文字通り入学式直後,突然に聞かされた。これらの学生は,2年生以上と同じく,新しい守山キャンパスにおいて勉強が思う存分楽しめることを,学生募集の際のキャッチフレーズとして最大限アピールされて入学した。学生たちは全員そうした期待の下で入学したが,全員一律に高槻キャンパスに強制移動させられた。
 第三に,移転完了までの期間に,大学側から実施された学生たちへの説明会はわずか2回だけであった。そのうち1回目は,2004年5月17日〜21日にかけて実施されたが,それは理事会が決定した後の単なる事後報告であった。しかもそれは演習の時間にゼミ担当教員が行ったもので,理事による責任ある説明ではなかった。このとき,教員から「キャンパス移転・統合は決定である」と説明され,学生側はこれに賛成する声が一つもなく,「理事が出てきて説明すべきだ」「卒業するまで統合しないで欲しい」と声が多数あがった。
 第2回目の説明会は,7月30日である。これを開催する旨学生に伝えられたのはわずか10日前。しかも,この日は学生の大半がすでに前期試験を終え,またインターンシップの実習などで登校するものは少なく,出席者は守山キャンパスの在籍者475人中80〜90名に過ぎない。この説明会は理事会による説明会であったが,法人と大学の最高責任者である理事長と学長は欠席した。また説明が一方的であり,質疑応答も途中で打ち切られた。法人側は,学生数減による財務的な悪化を移転の理由としたが,最低限の資料として学校法人の財務書類さえ開示されなかった。以後,法人による正規の手続きを踏まえた全学生に対する説明は一切なかったし,大多数の学生の合意を得る努力もなされなかった。
 第四に,キャンパス移転の決定プロセスにおいて,教学サイドの重要な意思決定機関である当該学部教授会の審議も,また正規に了解を得るという手続きも踏まえられることはなかった。常務理事会が移転時期も含めてキャンパス統合を決定した2004年4月1日から,正規理事会が最終決定した同年4月19日までの間,教職員を集めた一つの「説明会」が開催されたのみである。この説明会では,理事長から「守山キャンパスを高槻キャンパスへ統合する」という発言があっただけで、時期については言及されなかった。また,キャンパス移転計画に関する正式な文書も提示されていなかった。
 以上の諸点からわかるように,守山キャンパスの移転決定プロセスは,手続き面からいうと大多数の大学構成員である学生の合意のみならず,最低限の「教授会の自治」さえ踏まえられたものではなかった。従って,守山キャンパスの廃止は法人理事会による一方的な決定によるものであり,本件事件は学生の高槻キャンパスへの強制移転という性格をもつものであった。

(3)学生の移転反対の意思と「守山キャンパスの存続を守ろうの会」の活動

 平安女学院大学現代文化学部に学ぶ女子学生たちは,入学した時から守山キャンパスで卒業することが不可能になると想像したことはなかった。それは当然である。移転決定時,守山キャンパスが開設されてからわずか4年しか経ていないからである。現代文化学部は第1回卒業生を同キャンパスから送り出したばかりである。それがわずか5年で廃止され,しかも決定から1年の猶予も与えられず在学生全員が滋賀県から施設の古い大阪高槻キャンパスに強制的に移されるというのである。
 まず,学生たちは移転計画の事実を,4月10日付京都新聞の記事から突然知って激しく動揺した。この京都新聞の記事では,平安女学院山岡理事長は記者のインタビューに対し「学部の統合を含めた改革案は検討中であるが,今のところ守山キャンパスから完全撤退する考えはない。来年3月までに改革案を策定したい」と応えていた(常務理事会はすでに4月1日に当該年度末をもってキャンパス廃止を決定していた)。その直後,学内ではこの新聞記事について理事長名で「大変驚きを与えたことと心よりお詫びいたします」とする1枚の文書が学生に配布されたが,移転時期も含めなぜそうした措置をとるのか詳しい経過説明はなかった。法人による学生への対応は,それから1ヶ月以上も経った上述の5月17日開催の第1回説明会(実質は事後報告会)が最初である。
 法人による突然の移転発表とずさんな説明のもと,守山キャンパスに学んでいた女子学生たちの大部分が,キャンパス移転に反対した。第1回目説明会の直後,強く反対の意思をもった学生たちが中心となって「平安女学院大学守山キャンパスの存続を守ろうの会」(以下,「守ろうの会」と略す)が結成された(本件裁判において控訴人となった学生は同会の代表)。「守ろうの会」は,守山キャンパスの存続を訴えるため,ただちに署名活動を展開した。学内では多数の学生が反対の意思を示していたから,あっという間に署名が集まった。しかし,同キャンパスはもともと守山市民や滋賀県民の巨額な血税が投入されて建設されたものである。したがって,署名活動は学内のみならず,地域住民の中でも展開された。同会の女子学生たちは,授業が終わってから夜9時ごろまで,雨が降ろうと炎天下であろうと毎日欠かさず,「大好きな守山キャンパスで学びたい」という願いから,守山駅やスーパーの前,街路に立って道行く市民に署名とキャンパス存続を訴え続けた。また,町中のあらゆる機関(公民館,幼稚園,小学校,市役所,教育委員会,銀行,地域自治会など)にも署名用紙を配布してお願いに回った。さらに学生たちは当局から「経営が厳しい」と聞かされていたから,自発的に大学構内を巡り,電気代の節約のためと思い誰もいない部屋の電気やエアコンを消して回った。「みんなで協力して学内の掃除をしよう」と真剣に相談したりもした。
 「守ろうの会」は7月12日,こうした涙ぐましい活動の一つの結果を,山田亘宏守山市長宛にキャンパス存続の要望書と署名簿の提出という形で表した(署名を提出した時の新聞記事「守山市民新聞」2004年7月18日付)。署名総数は11,111名(守山キャンパスの学生293名,一般署名数10,818名のうち守山市民5,777名,守山市を除く滋賀県内の住民3,822名,滋賀県外1,219名)であった。7月23日には,同じ要望書と署名を今度は滋賀県知事宛に提出した。提出署名総数は12,816名に上った。また,8月4日には文科省に対しても大学側の対応を説明し,総数14,582名の署名簿の提出(署名簿を提出した時の新聞記事「京都新聞」2004年8月4日付)と同時に存続を訴えた(文科省宛「要望書」)。署名数は,最終的には大津地裁に疎明資料の一つとして提出した2004年12月24日時点で,総数19,943名,うち守山キャンパスの在校生315名(高槻キャンパスの学生を含めて355名),守山市住民8,547名,守山市民を除く滋賀県民9,204名,県外分1,837名に達した。守山キャンパスの学生署名は,就職活動中でほとんど登校していない4年生を除いて,在校生の8割を占める。また「守ろうの会」の訴えに賛意を示し,移転反対の署名をした守山市民は,同市全人口の13%に達し,ここには大学を誘致した守山市長をはじめ守山市議会議員や市役所の職員の多くが含まれていた。
 以上の事実から,いかに多くの学生たちが移転に反対もしくは同キャンパスで卒業したいと願っていたかがわかるというものである。また,巨額な血税を拠出した守山市民および滋賀県民の多くも学生たちと同じ願いであった。しかし,学校法人平安女学院理事会は,学生への事前の説明もなくキャンパス廃止を一方的に決定し,しかもその後学生の合意を得る努力も行わないまま,在学生全員を高槻キャンパスに強引に移そうとしたのである。学生たちが存続の願いを込めて集めた署名さえ,理事会は決して受け取ろうともしなかった。「守ろうの会」は,移転実施が近づきつつある秋に,「キャンパス移転の差止を求める仮処分」を提訴するよう守山市長宛に要望したが(守山市議会宛「守山キャンパス統合を差し止める訴訟の要望書」),結局のところこれも実現しなかった。その結果,「守ろうの会」は2004年10月26日,最後の拠り所として会の代表を原告とし大津地裁に本件「平安女学院大学びわ湖守山キャンパス就学権確認訴訟」を提訴するに至ったのである(大津地裁に提出した「訴状」)。

2.「びわ湖守山キャンパス就学権確認訴訟」と地裁判決

(1) 「びわ湖守山キャンパス就学権確認訴訟」の意義

 原告の女子学生(川戸佳代さん)が大津地裁に提出した請求事案は,「1 原告が,卒業するまでの間(卒業最短修業年限)被告の設置するびわ湖守山キャンパス(以下「守山キャンパス」という。)において就学する権利(教育を受ける権利)があることを確認する。 2 被告は,原告に対し,卒業するまでの間(卒業最短修業年限)被告の設置する守山キャンパスにおいて就学させよ。」というものである。要するに,在学期間中は入学させたキャンパスで学ぶ権利があり,それを認めて就学させよという訴えである。しかし,この訴訟のもつ意義は「同じキャンパスで卒業させろ」といった単純な訴えにとどまらない内実をもつ。
 第一に,原告学生は,マスコミの記者会見等で幾度となく強調しているように,平安女学院大学の社会的責任を問うためにこの訴訟を提起した。平安女学院大学は滋賀県および守山市から巨額な補助金を受けて守山キャンパスを設置しておきながら(守山市と基本協定では同キャンパスの長期存続を約束していた),わずか5年で同キャンパスを廃止し高槻キャンパスへ移転・統合を決定した。原告代理人弁護士も指摘するように,いわば「補助金の食い逃げ」を実行したのである。しかもこの決定を,関係自治体への了承を取り付けることもなく,また学生への十分なる事前説明と納得を得る努力をしないままに一方的に決定・強行した。こうした大学側からの就学権の侵害と,教育機関として社会的道義にもとる行為への責任の追求が今回の訴訟を通じて意図された。
 第二に,大学組織の生命とも言える学生を含めた大学全構成員の自治,すなわち「大学の自治」の重要性を踏まえ,訴訟によって迂回的ではあるがこの自治機能の回復を果たすという積極的役割である。本来,今回のような学生にとって重大な就学条件の変更をもたらすキャンパス移転などは,直接的には大学内部の,特に教授会や学則上で定められる同等の関係諸機関で充分に審議されてしかるべきで問題である。また,当該意思決定においては,大多数の利害関係者である全学生の意見を充分に踏まえなければならないのは当然である。しかし,同大学ではそうした大学自治が機能していなかった。学生たちは初めからカヤの外に置かれた。教職員さえ学生の就学権を守る立場にたってキャンパス移転を問題にしたという形跡も見られない。したがって,原告学生(および「守ろうの会」の学生たちの運動)は,訴訟という形態を通じて,本来的な大学の自治を取り戻すための役割を担おうとした。
 第三に,公的な資金を出した滋賀県と守山市が,住民のためになすべき大学存続を求める訴訟を学生が代わって提起したという側面も見逃せない。同大守山キャンパスは自治体が巨額な税金を使って誘致したものであるから,自治体自らが訴訟に持ち込んででもその責任を追及してしかるべきであった。しかし,守山市も滋賀県も,移転・統合に反対を表明するだけであり,実際に学生たちと一体となって存続を求める交渉をねばり強く実施したわけではなかった。また守山市は,移転差止のための仮処分を求めた「守ろうの会」の学生たちの訴えについて,市議会で厳しく追求されたにもかかわらず,訴訟当事者の資格を持たないなどという理由から取り上げようともしなかった。これはある意味,同市の失政のツケをそこに学ぶ女子学生たちに押しつけたと言いうるものである。同大守山キャンパスは,大学と地域との連携のもと,地域住民と学生とが中心となって実現する地域振興と大学発展の重要なかなめをなす施設であった。したがって,この訴訟は,市民・県民など地域住民の利益を守り,それを代表するという意味もある。

(2)大津地裁の判決

 「びわ湖守山キャンパス就学権確認訴訟」は,2004年10月26日に大津地裁に提起された。同年12月6日第1回口頭弁論が開始され,2005年3月3日の第4回口頭弁論で結審した。その間,原告側から計7つの準備書面と原告を含めた学生の「陳述書」が4本,一方被告学院側からは4つの準備書面がそれぞれ地裁に提出された。因みに,審理を進める法廷において,学院側被告席には計4回の口頭弁論と判決日も含めて,代理人弁護士以外理事長を含め大学当事者は一度たりとも出廷していない。原告学生がこの裁判で争点にした法理論は,民法における「第三者のためにする契約」,「第三者のためにする規範設定契約」論というものであった。
 大津地裁(稲葉童子裁判長)は,2005年5月23日,請求事案を判決した。しかし,結果は残念ながら原告学生の「訴えを却下」した。ここでは,判決内容の問題点を詳しく論じることは避け,決定の主要な要点のみを指摘しておきたい。大津地裁は,却下の理由として,(1)本件における「在学契約」の合意内容,(2)第三者のためにする契約の2つの側面から判断を述べていた。
 まず(1)について。大学の在学契約は,学生に対して@学生としての身分を取得させ,A文部科学省の定めた一定の基準にしたがって教育施設を提供し,Bあらかじめ設定した教育課程に従って授業等の教育を行うなどの義務を負い,学生は,その対価である授業料等を大学に支払うことを主たる内容とする。この契約において問題とされる施設は一定の基準に従った施設であって,特定された施設を利用させることまでが内容となっているとはいえない。「特定の施設を利用できることは,学生が契約を締結するに至る主観的な期待であって,動機にとどまり,これを越えるものとはいえないから,それに基づいて履行請求が可能となるような法的な権利が発生するとは認めることができない。教育内容に直接かかわる学科や授業が廃止されることと,授業を受ける場所が移転することとは,同列に論じられる内容ではない」というものである。要するに,特定キャンパスで学ぶ権利は,在学契約には含まれていないという不当な判断を示した。
 次に(2)について。原告学生の主要な主張はこの(2)の争点に関わっていた。すなわち,大学は守山市と「基本協定」を結んで守山キャンパスの長期(半永久的・期間の定めはない)存続を契約しており,かかる契約は、在学生(受益者)を「第三者」とする「第三者のためのためにする契約」であり、在学生はこれにより守山キャンパスで就学する権利を取得した。また,補助金適正化法により,補助金の交付をうけた補助事業者は補助者に対して事業遂行義務があるから,補助者に対する事業遂行義務は在学契約における大学の義務となった。これは規範設定契約,または付従契約論からも導かれる,という主張である。
 これに対して,判決は自治体が補助金を出したのは,「自治体の振興やその住民の福祉の向上のための手段にすぎず,守山キャンパスで就学する具体的権利を付与することをまで意図し,それを内容とする第三者のために契約をする意思があったと解することは,困難であるといわざるを得ない」という一文のみであった。この意味不明な判断については,原告側主張を全く理解しておらず,請求を棄却する理由説明にさえなっていなかった。したがって,原告学生は,判決の翌日2005年5月24日に大阪高裁に控訴した(大阪高裁宛「控訴状」)。

3.学生の就学権を守る運動と支援にむけて

 現在,「びわ湖守山キャンパス就学権確認訴訟」は,7月27日の口頭弁論を終えたばかりである。控訴人である女子学生は,これに向けて「第三者のためにする契約」論を踏まえた詳細な「控訴理由書」を大阪高裁に提出した。また,学校法人によるキャンパス移転の強引な進め方や理不尽な対応等の経緯,学生たちが学ぶ上で「地域に開かれた守山キャンパス」がいかに有効に機能していたのか,したがってどのような意味で就学権が侵害されたのか,さらには本件移転が大学の公共性をいかに損なうものであったのかについて,長大な「陳述書」3本と「意見書」2本を提出した。一方,被控訴人である学校法人は,大半が地裁判決文を引用して「元判決を支持する」と主張するだけの内容のない「答弁書」を提出するのみであった。
 この控訴審は,請求事案が,地裁と同じく「控訴人が卒業するまでの間(卒業最短修業年限)就学する権利(教育を受ける権利)があることを確認する。」「被控訴人は,控訴人に対し,卒業するまでの間(卒業最短修業年限)被告の設置する守山キャンパスにおいて就学させよ」との訴えであり,すでに控訴人は現在4年生になっている。したがって,控訴人が卒業するまでに判決を求めざるをえない事情から,口頭弁論は1回限りで終え結審された。あとは判決を待つだけとなっている。
 平安女学院大学守山キャンパス移転を巡ったこの「就学権確認訴訟」は提訴してから地裁判決まで,難しい裁判闘争においては,実質的に原告女子学生のたった1人の奮闘によって進められてきた。「守ろうの会」の仲間達など一緒に学んだ学生以外に,同じ大学内にいながら彼女の裁判を精神的に支えた教職員はほとんどいないに等しかった。そこで,この訴訟のもつ意義を理解し,平安女学院大学の学生たちの学ぶ権利を守るために,他大学の教員が主体となって「平安女学院大学びわ湖守山キャンパス就学権確認訴訟を支援する大学人の会」を結成した。判決までは短い期間であるが,大阪高裁宛に提出する全国的な署名活動を展開し,この問題を全国的に広めつつ公正な判決を訴えたいと考える。
 私たち「就学権確認訴訟を支援する大学人の会」は,この裁判においてどのような判断が下されるかはひとり平安女学院大学にとどまらず,日本の私立大学全体に関わる重大な問題であると考えている。今日,私立大学は「全入時代」を迎え,遠隔地にあって巨額な補助金によって設置された地方のキャンパスの統廃合は,全国いたるところで起きている。また,今後,文科省の競争原理に基づく高等教育政策の下で,弱小私立大学から軒並み廃校という事態が進行することもほぼ間違いない。あるいは株式会社なみに大学の吸収・合併という事態が発生することもあり得る。こうした際,まずもって守らねばならないのは,学生の就学権である。今日の全国の大学においては,大学の自治をないがしろにし,大学の公共性もかなぐり捨てて,教育を商品化しビジネスのごとく振る舞う大学が少なくない。短期的に「採算が合わない」と判断したら,学生の意向など無視してどんなことでも行う風潮がある。そうした場合,各大学における本来の全構成員自治はどこまで機能するのか。学生の学ぶ権利や就学条件はどこまで守れるだろうか。在学契約の趣旨はどこまで保障されるだろうか。この訴訟が問うているのはこの問題である。
 全国の大学人が平安女学院の女子学生たちの訴えに耳を傾け,この訴訟の意義を理解し,支援していただけるよう訴えるものである。

2005年7月28日